星名理論と岡理論 48 丸紅で星名理論を実践

丸紅、人事部の倉田さん、

 東京へ出た私は同期の伊藤(故人、同志社が大学選手権で優勝した時の監督)が商社の丸紅でラグビーをしていて誘われました。丸紅は商社リーグというのに入っていて、チームメートというシステムがあり、数名の社外の人間も登録して試合に出られるとのことでした。

 当時の丸紅は、人事部の倉田さん(故人、京大卒)が京大や同志社慶應の選手を集めていて、同期の宮崎(京大で私と同じポジション)もいて、スクラムハーフ、伊藤、スタンドオフ宮崎、なので、星名先生の理論を実践できるとのことで、丸紅でラグビーをやらしてもらうことにしました。

 一番印象に残っている試合は練習試合ですが、朝日生命(当時関東社会人の1部)との試合でした。倉田さんが、「練習試合なので、丁度京大でスタンドオフをしていた中村孝太郎が東京に遊びにきているので、伊藤、中村のハーフ団に、宮崎、浦野のセンターで楽しんで来い」と言って、送り出してくれました。

   京大と同志社は一緒に練習したりしたこともあり、皆同期で顔見知りだったので、楽しい試合でした。

 当時はまだ丸紅は社会人の2部か3部位だったのですが、1部の朝日生命のバックスのディフェンスをほとんど触られることなく抜いて、トライを重ねました。


 丁度その日は翌年に丸紅に入社する、上智大学ラグビー部のキャプテンが試合を見にきていたので、倉田さんが彼に「うちのバックスはどうや?」と聞いたら、試合が終わって帰ってきた私たちが小さかったり、痩せていたりで、とてもラグビーの選手には見えなかったので、「相手が弱すぎる。上智の2軍レベルですね」と答えたそうです。

 その時の朝日生命のセンターは小松、千葉という明治の大型バックスで有名な選手だったのですが。

 これを聞いた倉田さんは大喜びで、翌日から私の会社に何度も電話をしてきて、交換の女性に「上智大学の2軍程度のラグビーをする浦野さんと話がしたい」と言うので、会社の中では「浦野さんは、同志社で1年生からレギュラーだったと言う話だったけど、本当は上智大学の2軍程度のプレーしかできない」と言う噂が瞬く間に社内に広がりました。

 仕方がないので、私から倉田さんに電話するときには「上智の2軍程度のラグビーをする浦野です」と言って電話することにしました。電話を受けた倉田さんは大喜びでした。

1年京大戦記事のみ

 1年生の時の京大戦です。京大のメンバー表には石田さん、倉田さん、宮崎など懐かしい名前です。

大学1年 1964年 京大戦 同大が全勝優勝 浦野トライの写真
 この時の試合の写真です。何故か名前が間違えられていました。