星名理論と岡理論 25  星名理論を実践した京都大学

星名理論を実践したのは同志社と京大だけ

 星名先生の理論を実践したのは、残念ですが同志社でも私の時代だけです。他には星名先生が京都大学の出身で、京大も指導していたので同時期に京大も実践していました。

 当時の京大は非常に強くて大学選手権にも出場していました。特にバックスは小粒でしたが足が速く、良い選手が揃っていました。京都の高校出身者が多く、その頃の花園経験者も結構いました。私が高校1年生の時は、洛北高校、2年生の時は同志社高校、3年生の時は鴨沂(おうき)高校が花園の全国大会に出場し、その洛北(西村、渡辺)、鴨沂(石塚)から同志社大学へ、洛北(和田)、鴨沂(中村、宮崎)から京都大学に進んだ選手がいたので、選手同士も顔見知りでした。

 特に4年生の時の京大との試合は私には忘れられないものでした。前半は京大の早い試合運びに振り回され、リードされてゴール前まで攻め込まれていた時にそのプレーは起きました。

 ゴールポスト前のラックで京大はセンターの宮崎が反対側の私のサイドに走りこんで来たので、相手が3人こちらが2人でこちらが一人少ない場面になるところでした。

 私が宮崎に向かってタックルに行けば、宮崎はパスをして残りは2対1となり、簡単にトライされます。また私が宮崎にタックルに行かず、私の対面の選手にタックルに行くと、宮崎はパスをせずに私の背中を抜いて、走ってトライをします。これは宮崎の得意のプレーの一つで、彼が判断ミスやパスのタイミングを外すことはないと思いました。

 私は宮崎の方向に向かって少し走り、すぐ私の対面の選手の方向へ向きを変えて、またすぐ方向を私がスタートした場所へ戻る、丸く円を描くような走りをしました。その間宮崎の顔も方向も一度も見ていません。タックルのために姿勢を低くする間もなく、宮崎と正面衝突するような形でぶつかり、抱きかかえるような形でタックルをしました。

 その瞬間宮崎が「ナイスタックル」と口走りました。

 数十年経ち、宮崎(故人)と最後に会った時に、この時の話になり、「お前のタックルがなかったら京大は同志社に勝っていた」「俺もそう思う、あの時の京大の勢いはすごかったので、もしあそこでトライを取られていたら、後半巻き返すこともできなかったと思う」

 「一度ゆっくりこの話をしたい」と言ったのが、宮崎の最後の言葉で、数年後、彼は永眠しました。

 「お前のタックルがなかったら京大は同志社に勝っていた」。その年は同志社大学関西大学リーグで10年連続優勝した時でしたので、「たら」「れば」の仮定の話は負け惜しみになるので、したくないと、胸にしまっていたのが、思わず口に出てしまったのだと思うと、私自身も、その時は「負けるかもしれない」と感じていたので、もっと早く、宮崎とこの話をしておけばと思いました。

大学1年 1964年 京大戦 同大が全勝優勝 浦野トライの写真
 4年生の時の京都大学との新聞記事がなかったので1年生の時の私のトライの写真です。

 星名理論と岡理論 2」はこちらです。