星名理論と岡理論 86  主体的思考による環境の最適化 5

星名理論が生まれた時代背景

 星名理論の凄さを知るためには1960年代の時代背景を知る必要があると思います。私が星名先生と出会い、星名理論を教えて頂いたのが1965年大学2年生の春の時でした。
 この頃はテレビもまだ白黒が主流でビデオなどもあまり普及していなくて、海外の情報もほとんどない時代でした。円の為替レートも固定で1ドル360円の時代で、大馬鹿者の私はニュージーランドがどこにあるかも知りませんでした。
 
 まず星名先生の略歴(ウィキペでイアより抜粋、加筆)です。
 米国テキサス州ヒューストンで生まれ、現在の京都、洛北高校京都大学工学部出身で、ラグビー部に所属していた。1928年に京都大学ラグビー部が東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で早稲田大学を破って、全国制覇したときのキャプテン。ポジションはCTBで、たくみなサイドステップやカット・スルーで活躍した。
 5種競技でもアジア大会で優勝した。

 1928年大学卒業後は南満州鉄道に技術者として勤務、1947年に満州から帰国、その後は同志社大学工学部の教授となり、同大学ラグビー部を指導した。当時の教え子に元日本代表監督岡仁詩などがいる。1960年に京都大学ラグビー部の監督に就任。京都大学ラグビー部元監督の市口順亮など、多くの名選手を育てた。

 星名のラグビー理論は、「星名ラグビー」と呼ばれ、オーストラリアやニュージーランドなどの最先端のラグビー理論の原著を自ら翻訳し、積極的に取り入れて日本のラグビーを一気に近代化させた。その理論は教え子である岡や市口だけでなく、早稲田大学の名将、大西鉄之祐など、ラグビーの黄金期を支える世代に大きな影響を与え、日本の近代ラグビーの発展に貢献した。
 エピソードとしては、星名が同志社大学の学長への就任が決まった時、新聞記者たちのインタビュー申し込みに対して電話口で、「学長就任の抱負など特にない。ラグビーの話ならする」と答えたという。
星名先生一人
 私が同志社高校に入り、ラグビーを始めて、何も分からないのでラグビーの本を探しに本屋に行ったところラグビーに関する本が1冊あっただけで、それを買ってラグビーのことを少し勉強しました。

 当時、ラグビー界で話題になっていたのはニュージーランドの戦法でアップ・アンド・アンダーと呼ばれるもので、スタンドオフで高いキックをフォワードの前に上げ、それを走り込んで勢いをつけて倒し、ボールを確保すると言うものでした。パスは後ろにしなければならないラグビーのルールの中では、バックスにパスをするのはハーフからスタンドオフへの一回だけで、フォワードが後ろに走る場面を極端に少なくする確実な戦略でした。
 そして、バックスは深い(相手から遠い)アタックラインで足の速いウイングまで回して勝負すると言うものでした。

 このような時代背景の中で、星名先生は外国のラグビーの文献を読みあさり、それまでの常識とは真逆の、天動説の時代に地動説を説くような、極端に浅い(相手に近い)アタックラインを考え出されました。