二回目の脳震盪は大学1年生

秋の八幡製鉄戦で二回目の脳震盪

 初めての脳震盪(脳シントウ)は高校3年生の時でした。二回目の脳震盪は大学1年生の時、秋の八幡製鉄(現、新日鐵八幡)戦でした。当時の八幡製鉄は非常に強くて、社会人のNo.1でしたが、3月に日本選手権で同志社に敗れ、雪辱に燃えていたように感じました。

 私はこの時、左センターで坂田さん(国際ラグビーの殿堂入りされたレジェンド)とコンビを組んでいました。

 試合が始まって数分後、パスをした直後にタックルに入られ、相手の頭が私の頬に当たり、脳震盪を起こして、また一時的な記憶喪失になりました。当時は選手の交代が認められていない時だったので、またヤカンの水をかけられプレーは続けましたが、試合の記憶はほとんどありません。

 気がついのは試合が終わり、京都に戻り、下宿で夕食を食べている時でした。何故か、顎が痛くまともに夕食が食べられませんでした。

 なんでこんなに顎が痛いのか考えてみたら、今日は日曜日で試合をしたことを思い出しました。覚えているのは前半始まってすぐ、パスをした直後にタックルを入られたことだけです。

 試合が負けたことも、どのようにして京都へ戻ってきたのかも覚えていません。翌日に新聞を見て初めて負けたことを知りました。

 脳震盪はこの時が二回目で、自分でもあの時脳震盪を起こしたのだと、理解できるようになりました。一時的な記憶喪失(逆行性健忘症と言うそうです)になったことも思い出しましたが、記憶の喪失した部分は思い出すことができません。

 その後、脳震盪は二回ほど起こした経験があります。でも、なんとか脳の損傷はなかったようです。


大学1年 1964年 社会人No1八幡製鉄戦 左センターで坂田さん(国際ラグビー、殿堂入り)とコンビを組む
 試合中のことはほとんど覚えていないので、プレーがまずかったのか、それとも私の体のことを心配してくれたのか、次の2試合(近鉄戦、大阪府警戦)は試合に出ることはありませんでした。
 私は4年間、ほとんど同志社のセンターのポジションを独占したみたいで、試合に出なかったのは1年生の時のこの2試合と、4年生の最終戦、大学選手権の法政大学戦を太ももの肉離れで欠場した3試合だけです。

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