もしかしてワクチンの後遺症?

 ここ2週間ほどシッチェスは寒い天気が続いています。ほとんどが雨と風で温度は最高温度は13−14度、毎日のように強い風が吹いています。
 
 私はいつもこの時期が1番体調が悪い時です。いつもは1月に旅行に出かけ、また3月に旅行に出かけるのでトレーニングを休みにする時が多いからです。コロナが流行ってからほとんど引きこもりの状態が続いていますが、ランニングと筋トレはほぼ毎日やっているので逆に調子が良い日が続いておりました。

 去年の12月にワクチンの3回目の接種を行いました。ちょうど12月頃からリナの散歩を車で行くのをやめ徒歩でサンセバスチャンビーチに行くようになりました。

 最初はリナを抱いて歩いて行っていたのですが、だんだんリナが元気になり最近は家を出た時から帰るまで歩いています。
 去年の12月からリナの散歩から帰るとめまいがしたり疲労感が半端ではなくなりました。当時はリナの散歩が増えたのでその分体力を消耗しているんではないかと思っていました。
 
 ところが、ここ数週間は全力疾走で息切れするようになってきました。以前は全力疾走は5往復やっていました。ところが12月ごろから全力疾走は3往復で少し息切れがするようになってきました。
 この3週間ほどは走ればすぐ息切れがするようになりました。こんな事は初めてです。

 最近になりコロナのワクチン注射で副反応で心筋炎や心膜炎になるケースがあると言うことを知りました。少し心配でいろいろ情報を集めています。

 私は寒いのが苦手で今が1番調子が悪い時なので暖かくなれば元に戻るかもしれませんが、こんなに調子の悪いのは初めてで少し心配です。

 本当は4月からラグビーを再開しようと思っていたのですがもう少し様子を見ることにします。

 毎日の運動量は結構なものです。朝は腹筋とか背筋とか少し筋トレをしてそれから全力疾走に出かけます。昼はリナとレニィの散歩で3キロぐらい歩きます。夜は寝る前に腕立て伏せ100回位、軽いウェイトで腕を振り回したり、ペットボトルで骨に衝撃を与えたり、アイソメトリックスなど40−50分筋トレを続け、シャワーを浴びて寝ます。
 運動量としては以前と比べて落ちているわけではありませんでした。目眩と疲労感が半端でないだけです。

 喜寿の老人なので、体力が落ちるのは当然かもしれませんが。

 この写真より、更に身体は引き締まっているように感じています。
トレーニング写真1年後 J
左が75歳の誕生日、右が76歳の誕生日の1日前の写真です。

星名理論と岡理論 89  星名理論のアニメーション


 星名先生の理論をアニメーションにして作ってみました。

 言葉よりはイラスト、イラストよりは動きのあるアニメ、と以前から考えてはいたのですが、なかなか時間がなくて作れませんでした。アニメーションの作成はこれが初めての挑戦となります。

 FC2のブログでもMACであれば、英語、スペイン語には翻訳できるので、画像データのテキストの一部は英語に直しておきました。

 一番上のdefense Lineとなっているのは守備側(ディフェンス)が通常並ぶラインでスクラムの最後尾の選手の足から5メートル後ろの位置で、ボールがスクラムから出るまで、前に出ることはできません。 
 二番目のラインはゲインラインで攻撃側と守備側の境界線です。
 三番目のラインは想定できるタックルラインで、それぞれのマークの選手がタックルをすると想定される場所をつなぎ合わせたものです。大方の場合アタックラインとディフェンスラインの中間点ぐらいに位置します。

 最初の立ち位置はスクラムからの時はスタンドオフの横一線に並びます。まずスクラムの中にボールがあるときにインサイドセンターはスタートを起こします。相手のディフェンスLINEはまだボールがスクラムの中にあるのでスタートは起こせません。大体の時間はスクラムからボールがでる1-2秒前です。
 スタンドオフスクラムからボールが出ると同時にスタートを起こします。
 相手のディフェンスはスクラムからボールが出たのを確認してから前に走り始めます。そのためスタートはさらに少し遅れるものとなります。
星名理論 A1−1-ANIMATION-2
 スタンドオフもまっすぐスタートしボールを受けて相手のタックルが届く少し前で横に長いパスをします。インサイドセンターはスタンドオフより前に走っているのですが相手のディフェンスはこれ以上前に走るとボールを持っていないセンターにぶつかるので途中で待つしかありません。
 
 相手のセンターが立ち止まった瞬間にインサイドセンターは横に大きく走ります。助走をつけながら走り込んでいくセンターと立ち止まって待っている相手のセンターでは助走をつけて走り込むセンターの方が有利です。
 
 星名理論はスタンドオフインサイドセンターの動きが鍵になります。特に重要なのはインサイドセンターの走りで、横へ走るスピードです。私は体重が60キロ弱で横へ走るスピードが速かったのですが、他の選手は体ががっちりして縦に強く、ぶつかりながら突破する選手が多かったので、なかなかうまくいかなかった様です。

 アニメでわかると思いますが、スタンドオフより早くスタートして、出来るだけ前へ出て、相手の選手を立ち止まらせる事が重要です。
 失敗してもほとんどゲインラインの近くまで走り込んでいるので、味方のフォワードが後ろに走る必要はあまりありません。バックスのもっとも重要な役割はフォワードを前に走らせる事です。

星名理論と岡理論 88  主体的思考による環境の最適化 7

 私が星名先生、岡先生から引き継いだもの。

 当然、私が両先生から引き継いだものは「自由な発想」と「主体的な思考」のようです。でも、これに気づいたのが半世紀以上経った、もう人生の終わりも間近の最近というのが私らしいところです。

 私が星名先生にグランド以外でお会いしたのは2回だけです。一度は卒業間近、京都の同志社のグランドがあった近くの三宅八幡駅の近くのご自宅に、キャプテンの石塚と一緒にお邪魔しました。

 卒業して広告代理店に勤務していた時、毎日放送でよく面倒を見ていただいた、京大のボクシング部のOBの森さんと一緒に、軽井沢の星名先生の別荘にお邪魔した事があります。

 森さんがイギリスのBBCが放送したラグビーの世界選抜とイングランド代表の試合の放送権を手に入れ、なんとか日本で放送したいので、星名先生の力を借りたいとのことで、京大ラグビーのOBの石田さんと一緒に、別荘にお邪魔しました。そして星名先生の力添えで新日鉄の提供していた番組の中で放送する事ができました。

 当時、まだ世界のラグビーの情報が全く入ってこない時期での初めてと言っても良いような、素晴らしい試合の放送でした。

 岡先生とは卒業してから20年近く、毎夏、同志社の合宿には臨時コーチとして2週間参加し、大学選手権などで同志社が上京した時は宿舎に同宿しました。

 また住んでいたのが南青山、元麻布と都心で便利で、独身時代が長かったので岡先生は気軽に、泊まりに来られ、ラグビーの話を夜遅くまでしていました。

 ですので、岡先生のラグビー理論は私が一番理解していると自負しています。

 ラグビーを始めたおかげで、自分は得るものが多かったと思ってはいたのですが、何がどのように自分に影響を与えたのか、考えた事がありませんでした。

 これは私だけではなく、ラグビーをした多くの人が、「ラグビーをして良かった」と感じていると思いますが、これは他のスポーツをしている人も同じです。他のスポーツをした人も「そのスポーツをして良かった」と思っている事でしょう。

 でも、私はラグビーだからこその、何かがある様に感じていました。私のラグビーの友人の多くは、大雑把でいい加減です。良く言えば、「他人の価値観を認め、多様性を認める」とも言えます。

 何故、この様な性格になっていくのか、

 そのキーワードとなるのが「主体的思考」だと考える様になりました。


自分で考え、責任を持つ

ブログの構成を一部変更しました。

 FC2のこのブログを始めたのが2020年9月20日です。 FC2のブログを始めて1年半経ちました。

 コロナ禍でいつ死ぬかもしれなくなったので、星名先生と岡先生のラグビー理論を誰でもが見られるように、ブログに残しておこうと思い立ちました。ブログには書いてあるのですが、お二人のラグビー理論はすごいものです。私が大学2年生の時、星名先生に教えていただいた理論はコペルニクス的転回と言った表現がぴったりする、それまでの理論の真逆のもので私の生き方にまで影響を与えたものでした。

 無口で、照れ屋で、表現能力に欠けていた私は自分が教えていただいて、実践できるようになった技術を後輩に伝授する事ができませんでした。そしてマーケティング業界に進みたかった私を後押ししてくれたのは星名先生でした。

 その時に先輩から言われた言葉は今でも心に残っています。

 「お前は星名理論を同志社で実践できているただ一人の選手ではないか。そのお前が社会人の強豪チームでラグビーをせず、マーケティング業界に進むことを星名先生が後押しをしてくれている。その星名先生の気持ちを考えると、お前は星名先生の後押しを断り、ラグビーを続けて星名理論を啓蒙すべき役割があるのでは」

 でも当時は、星名先生も岡先生もお元気だったので、誰か後継者はすぐ出てくるのではと思っていたので、星名先生のご厚意を受けさせていただきました。

 それからもう半世紀以上経つのに、まだ星名理論の実践者は現れません。それで、少しでも多くの人が星名理論に触れる機会を作っておこうとブログを始めました。

 そのため、ブログはFC2以外にも読者層が違うのでアメブロ、ハテナ、エキサイト、Blogger などに同じ記事を掲載時期をずらせながら公開していました。特にBloggerGoogleがやっていることもあり、世界各国の言語に翻訳できるので、ラグビーだけに絞り込み、ホームページのような構成にしてこちらをメインにしようと考えていました。

 ところが最近になり、自分が作ったものでも、同一の重複記事はGoogleの検索結果の表示などで問題がある事がわかりました。私はSEOは勉強のためにいろいろ調べましたが、広告や広報が私の専門分野ですので、最終的には既存メディアへのリリースを視野に入れていたので検索でのページビューにはあまり重点を置いていなくて、またスペインのラグビー関係者にも読んでもらいたかったので、Googleをメインにしようと思っていたのですが、最近になり、AppleSafariでも全ページ他の言語で全て翻訳可能なことを知りました。

 いつからこのようになったのか知りませんが、あたらしいMacBook Airでは一番上にアルファベットの記号の様なものがあり、そこをクリックするとブログ全体が英語、スペイン語などの登録している言語に全て翻訳してくれる事がわかりました。

 それでちょうど1年半の日となる昨日に、他のブログを全て公開をやめ、このブログの右欄のリンク先を全て削除し、カテゴリーを修正し、もう少し、星名理論が読みやすくなるように作り替えました。

岡先生、星名先生 まり子さん

星名先生と岡先生と岡先生のお嬢さん

クラシックカーラリーが再開されました。

 昨日の日曜日、久しぶりに雨が降らずに、朝から時々太陽が出ていました。

 昼食を早めに切り上げ、リナとレニィを連れていつものサンセバスチャンビーチに散歩に行きました。

 サンセバスチャンビーチの遊歩道への道に着くと、前方の遊歩道は沢山の人で何かイベントが行われているようでした。

 人だかりで何をやっているのか見えませんでしたが、旧式のクラクションがなっているのが聞こえ、もしかしたらクラシックカーラリーが再開されたのでは、と思い急いだのですが、もう最後の方で写真は撮れませんでした。

 ラリーと言っても競争ではなく、クラシックカーに乗って、クラシックな服装をした人がパレードをするだけで、バルセロナを朝出発して、昼過ぎにシッチェスに着いて、パリッシュ教会の前の広場に車を展示して、シッチェスの街中をクラシックな服装で歩き回る、と言うものです。

 いつものコースを変え、とりあえず、リナとレニィをビーチで遊ばせ、パリッシュ教会の前の広場に急ぎました。日曜日とは言え、最近のシッチェスは人出が少ないので、マスクも持って来ませんでした。

 久しぶりの人出で、これはまずいと思い、写真を一枚撮っただけで、メインの道を避け、細い道を抜けて家に帰りました。 

クラシックラリー202
2006年のクラシックカーラリーの様子 こちらからからご覧ください。

 カーニバルも再開され、少しづつイベントも再開されるようになり、少し希望が持てるようになって来ました。早くいつものシッチェスに戻って欲しいものです。

星名理論と岡理論 87  主体的思考による環境の最適化 6

 星名先生から岡先生に引き継がれたもの

 星名先生から教えを受けた岡先生に引き継がれたものは「自由な発想」と「主体的な思考」のようです。

 岡先生の講演録「教わり、教え、教えられ」では次のように書かれています。

自分で考え、責任を持つ
 岡先生の略歴(ウィキペでイアより抜粋、加筆)です。
 大阪市出身。天王寺中学から同志社大学文学部に進学。現役時代のポジションはFW。1959年に同大ラグビー部監督に就任。1962年に日本選手権の前身、第2回NHK杯で優勝。1964年の第1回日本選手権も制した。同志社ラグビーの象徴ともされる存在である。
 1973年にラグビー部で部員事故死があり監督を辞任。3年後に復帰した。その後、大学選手権は、林敏之大八木淳史らで1980年に初優勝し、平尾誠二らが在籍した1982年〜1984年度に史上初の3連覇を果たした。このほか、日本代表監督も1972年をはじめ数度歴任。日本ラグビーフットボール協会強化委員長も務めた。

 バックス出身の星名先生とは違い、フォワード出身の岡先生はフォワード戦にこだわりを持っておられるように感じました。「フォワード戦に勝たないとラグビーの試合には勝てない」と言って、特にスクラムを重視しておられました。
 1960年代の同志社スクラムの強さは伝説的です。スクラムは8人の力を最前列の3人にうまく伝えないと押せません。少しぐらい力の差があっても、相手に一人強い選手がいるとスクラムが回ったりして組み直しを命じられ、押すことは難しいので、組んですぐボールを入れて最前列の真ん中の選手(フッカー)がボールをフッキング(足で後ろに転がす)します。
 
 スクラムを押すことにこだわった岡先生は時にはフッキングをする時に片足を浮かせるので、フッキングをやめて両足で押すように指示したこともあります。この時代のスクラムは押すのではなく、押しながら走るものだ、と言われていました。事実、私はテレビでスクラムを20メートルほど押しながら走って、相手のフッカーがボールと一緒にスクラムから転がって出てきたのを見た事があります。

 このように岡先生のラグビーに対する考え方は、主体的な思考で、スクラムをどのようにして押し勝つか、常識や慣習に縛られない、自由な発想で、フォワードが勝てる環境を作り上げておられました

タクシー68台 ウクライナ避難民を迎えに6370キロ

 コロナ禍にウクライナ侵攻、日本からのニュースは不愉快なものばかりです。香港で感染が急増し、核戦争の危機が騒がれている中に、原発再稼働、Go To トラベル、年金生活者向け5000円と馬鹿げたニュースばかりです。

 こんな時に、読んでいて思わず涙ぐんでしまいそうなスペインのエピソードです。

 下の記事はスペインニュース・コムの抜粋です。

 2022年3月17日、朝、午前1時になった頃、マドリッド市に68台のタクシー群が、ウクライナ国民135名を伴って到着した。

 ウクライナでの惨事を見て、自分達に出来る事は何かと考えた時に思いついたのがタクシーを使っての物資の輸送、そして避難民の脱出の手助けだったとのこと。

 これに賛同したタクシー運転手68名が、それぞれの車の内外部に、スペイン国内で集められた救援物資を積める限り積み込んでポーランドへと向かった。

 ポーランドで積み荷を降ろしたあと、ポーランドまで避難して来たウクライナの人々でスペインへ移動したい人々の移送の手助けを買って出た。

 こうして乳幼児、子供、高齢者を中心に計135名の避難民を乗せたマドリッドのタクシー群は、ヨーロッパの東の果てから西の果てへと向かった。

 マドリッドを出発してから戻ってくるまで、往復6370キロの道のりであった。 彼らの到着を歓迎しようと、マドリッドタクシードライバー達がそれぞれの車を出し、オドネル通りからシベレス広場にかけてのタクシー・バス用車線に車を並べ、その到着を待っていた。

 長旅を終え市内中心部へと入って来た135名のウクライナ避難民、そして彼らをここまで無事に運んできた運転手等に対し、クラクションによる大合奏、そしてスペインへの歓迎と励ましの言葉を投げかけた。

 避難して来た人々には勿論、タクシー仲間等によるこの思わぬ大歓迎を受けた運転手等にとっても、生涯忘れる事のない瞬間になったとのこと。

 マドリッドに到着したウクライナの人々は、「平和の使者協会」の創立者であるアンヘル神父が待つ、Hortaleza通り63番地にあるサン・アントン教会に導かれ、そのあとマドリッド市やその他の都市のそれぞれの受け入れ先家族の元へ向かった。 

 スペイン人は本当に大雑把でいい加減で、ラグビーをする輩と同じです。スペインに来て日本人だからと差別されたことはありませんでした。アフリカ大陸からの難民もたくさん受け入れています。スペイン、シッチェスに来て本当に良かったと思っています。

 今日のシッチェスも朝は雨でしたが、昼からは雨も止み、リナとレニィを連れてビーチに行きました。

 昨日のサンセバスチャンビーチの写真です。

サンセバスチャンビーチ波 トルメンタ
 いつもはこのビーチでリナを走らせるのですが、この日はトルメンタ(強風)で波が激しく、ビーチには降りられませんでした。